LFJからハルサイまでフランス音楽をハシゴ
ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン(LFJ07)をきっかけに、LFJで、ラフマニノフ:ロマンスとスケルツォ、チャイコフスキー:フィレンツェの思い出(オーヴェルニュ室内管弦)、ラヴェル:vnソナタ(パスキエ演奏)、vnとvcのためのソナタ、フォーレ:ピアノトリオ、シャブリエ:田園組曲、ビゼー:交響曲ハ長調、サン=サーンス組曲:「動物の謝肉祭」、サン=サーンス:ベートーヴェンの主題による変奏曲、ビゼー:小組曲「子供の遊び」、サン=サーンス:vc協奏曲第1番、フォーレ:「レクイエム」と聴き、しまいには、チョン・ミョン・フン指揮フランス新国立放送フィルハーモニー(これだけは、LFJ07でなくツアーの日本公演東京オペラシティ)で、フォーレの「ペレアスとメリザンド」、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」第2組曲、そして、ストラヴィンスキー:バレエ組曲「春の祭典」と1週間になんと13曲、そのほとんどがいわゆるフランスもの、あるいは、フランスのオケが演奏する「ロシアもの」、あるいは、フランスで人気が高いロシアものを聴くことになってしまいました。今も頭の中で、音楽が鳴門の渦状態のままであります。せっかくなので、フランス音楽についての感想をまず記しておきます。日本では、フランス音楽は、ドイツものに比べると、あまり多くは演奏される機会がありません。その中で、フランスものを、ざっくり語ってしまうと、幼少時に、それまでチャーハンしか食べたことのない僕が、初めて、セロリやピーマンの青くささの入ったピラフを食べたときの、口の中に初めて味わう一種独特の西洋くささと、どこか、似ていなくもないと思います。つまり、今まで考えてきた、日本の音楽の聴き方というのは、音楽はドラマであり、演奏家の一挙一動に注目して、音楽を分析して見せ、その分析的な巧みさに拍手を送る・・・といったような、日本流の音楽の聴き方では、さらさらなくて、まずは、今回のフランスものをフランス演奏家たちから受けた印象では、まずもって、大掴みで、音楽のなんたるかをつかんでしまい、しかる後に、細部の1つ1つにまで気を配るという方法が、フランス音楽なのかもしれません。チョン・ミョン・フンの「ハルサイ」はまさに、それを代表するような演奏でした。
「ハルサイ」のもつ、バルバリズム(野蛮主義)とか、ひとつひとつの、楽器のみせる、「ドラマ」みたいなものに、今まで、ぼくは、フォーカスをあてすぎていて、この曲全体のもつ、「春を迎えたときの、木々の動物たちの喜び」みたいなものをおろそかにしていたような気がします。それは、大げさですが、日本の文化の陥っていた一点豪華主義、なるだけ多くを曲から味わってしまいたいという珍奇なものへのこだわり、欲求みたいなものとちがって、どこまでも、透明感を保ちつつも、全体の中での、個々の役割。こうしてみると、個がおろそかになっているわけではなく、全体のトーンは統一され、その中で、たとえば、冒頭のfgのどこまでも、クレッシェンドを強めていけるような余裕感や、tim奏者の、ひとつひとつの音楽を大事にした、決して、独りよがり、中での個性の発揮や、
めまぐるしいリズムの中で魅せる、金管楽器間をつないでいく、きらめき感に現れていたように思います。
フォーレの「ピアノ・トリオ」や、「ペレアスとメリザンド」や、「レクイエム」は、全部、個の音を大切にするものの、全体のトーンの統一なくしてはなし得なかった偉業であり、それは、いわゆる、ひとり芸が合わさった室内楽ではなく、トーンの統一があってこそ、はじめて室内楽といえるものを感じました。
中には、「レ・シエクル」というまだとても若い演奏家たちのアンサンブルもあったのですが、彼らにとってさえも大切にしているのは、弾く喜び、アクセントとか強弱記号そのものが大事なのではなく、音楽の長いフレーズ感の中でそれを大事に培っていく喜びを感じたのでした。
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